「漣 (さざなみ) 第二部」

大学時代に伊藤廣利先生という、もう亡くなってしまった偉大な先生がいました。

伊藤先生は鍛金の先生でしたが当時は美術教育という科の担当で、日中は違う棟にいて、夜、学生が帰る時間になると鍛金科の工房にやって来て自分の制作を始めるのです。

彼の鉄を鍛える姿は美しかった。

哲学者のような気難しさと詩人のような静けさをずんぐりと武骨な背中から発し、流れるように作業します。

私は何とかして伊藤先生のお話が聞きたくて、「彼の音」が聞こえ始めると、そっと覗きに行きました。

私に気付くと彼はきまって

「見せもんじゃぁねえぞ」と言って微笑みました。

ある日いつものように見ていると、私に気付いた先生は

「おまえ、鉄が笑ってるの見た事あるか?」

と言いました。

鉄が笑う?何と魅惑的な言葉でしょう!

私は思わず彼の元に近付き、

「ありません!」

「毎日いじってるくせに何見てンだ?」

「今も見れますか?」

「一瞬しか見えないからよ〜く見てろよ。」

重油炉の重たい煉瓦の上げ下げ扉の鎖を引くと、中から一斉に光と熱とゴォーと言う音が、まるで怪獣が雄叫びをあげるように一斉に解き放たれます。

炉の中では1000度に達した鉄の塊が真っ白に光っています。

長い柄の火ばしでそれを引きずり出し、しっかり銜えて3メートルほど離れたところに据えてある「牛の角」という金敷きの上に乗せ、私の首根っこを掴んで黄金に輝く鉄のまじかに、一緒に顔を近づけました。

「!!!」

「ホラ!笑った!」

「‥‥‥‥‥‥笑った、笑いました!」

「だろ?笑ったろ!」

「笑いました‥‥‥‥‥‥。」

マツ毛がカールしてしまうかという程の温度を顔面に感じながら、目がうるうるとしました。

溶ける寸前の温度に達した鉄は酸素を欲しながら急速に酸化します。

冷たい空気に始めて触れた瞬間に、鉄の表面を小さな妖精のような光の粒が、楽しそうに歩き回るのです。

確かに鉄は笑っていました。

それを“笑っている”と形容する彼の感性に感動しました。

鉄の光に照らされてオレンジ色に染まる彼の横顔を見ました。

その時、伊藤先生は私が生涯忘れない言葉を、鉄を見つめながら言ったのです。

「人間はね、おもねりながら生きてるの。」 

「まわりの人間がおまえを心配している事に気付きながら仕事ができたら、おまえの作品はもっと良くなる。」

「はい。」とだけ答え、ふらふらと工房をあとにしました。

‥‥‥作品はたった独りで作るものと思っていた。

「おもねる」を辞書で調べてみたら、「へつらう」とあった。

人にへつらって良い作品が作れんのかい?‥‥‥‥

ところがいろいろ関連する言葉を探していたら、おもねるとは荷物や仕事を両手いっぱいに抱き込むと書いてあって、「任」と書き、母親が赤ちゃんをお腹に入れ込むのを妊と書く。

仕事や大切な人や、そういうものをしっかり引き受ける。

それがおもねるという彼の言葉に繋がったのか‥‥‥

何かに激しく打ちのめされた気がして、そして恥ずかしかった。

そしてどうすればいいのか判りませんでした。

だいたい、なんで彼が私の事を知っているのだろう?

ほかの先生に聞いたのかな?

そんな事はどうでも良く、とにかく大きな宿題を渡されたと感じました。

今はもう、伊藤先生はいません。

彼にぜひ「漣」を見て欲しかった。

しかし‥‥‥彼に渡された宿題を、私はぜんぜん出来ていないと、いつも思い知る度に心がチクリとなります。

叩いた事によって上に膨らんでしまった鉄板が茶室の地板として好ましくない事は分っていました。

しかし、あの鉄板をこの腕一本で曲げた事が、なんだか少し嬉しい気がして、そして素材とのヤリトリの末に、ようやく命を宿したオブジェを再び平らに戻してしまう事は、なにか罪深い事のようにも思えました。

幽かな膨らみがあってこその漣ではないか?

曲がりを取ったら表面に鎚目の付いた、単なる装飾的な建材に変わり果てはしないだろうか?

また、地平線にしても水平線にしても、地球の一部である以上それは球体の一部であり、幽かに膨らんでいるべきではないか‥‥‥‥????

この迷いが、作家の自己顕示欲なのか、それとも自然の感覚に忠実な精神なのか‥‥‥

作品をどのように仕上げて納めるかは、私の責任で行わなければと感じ、結局あるがままの姿を見てもらうしかないと思い、そのまま搬入する事にしました。

今にして思うと、あの時伊藤先生の言葉を思い出していれば良かったと感じました。

曲がった地板が納められた現場では大騒ぎになっていました。

「こんなものは捨ててしまえ!」という叫び声が聞こえました。

この事態を収束させるために、私の知らないところで多くの方々が尽力された事は言うまでもありません。

私の小さなこだわりを遥かに超え、
問題は実にシンプルでした。

地板は水平でなければならないのです。

作り手にとってプロセスは大事だけれど、どんな事に優先しても、強い意志を持って一直線に目指さなければならない到達点が明解に存在する時もある。

制作には、作品に没入し迷宮を旅する自分に酔いしれる次元と、作品と自分を突き放して原点に立ち返る次元があります。

深く入り込んだ結果、皮肉にも原点に帰れなくなってしまったのです。

身を削って苦難を乗越え、手塩にかけてきた鉄板を愛しく思う気持ちは純粋なものでした。

しかし、私の向こう側にいる全ての人々が私の作品を否定している。

うめきながら身をよじって幽かに膨らんだ鉄の緊張感。

私がそうしたのです。鉄に罪はない。なんだか作品に申し訳ない気持ちすら出てきました。

地板の周りは一流の左官職人の手による見事な壁がすでに出来上がっていましたが、搬出にあたってそれをぶち壊す事が必要で、職人さんには本当に申し訳なかった。

いろんな申し訳なさで落胆し、私は鉄板と共に、這うようにして仕事場に戻りました。

放心状態で地板を手のひらで触り、謝っていました。

5百トンプレスというプレス機が、江戸川にあるという事が判りました。

油圧の力によって5百トンの加重をかける事のできる機械です。

訪ねていくとそこにはまさに演歌がほとばしり出そうな、岩のような親方がいました。

「50ミリの鉄板を曲げられますか?」

「50ミリ?そんなもん簡単だ」

写真を見せました。

「‥‥‥‥これが鉄か?」

「はい。1ヶ月毎日叩いてこのようにしました。この鎚目にひとつも傷を付けずに曲げられますか?」

「簡単だ。雨さえ降らなければな。」

「雨?何故雨が降ると‥‥?」

「何言ってんだ?雨降ったら錆びるだろうが!」

「‥‥‥‥‥‥!」

腕のいい職人ほど無口で仕事は早いものです。

地板をどんな気持ちで私があそこまで仕上げたか。

それを最後にまっすぐにする事がどれほど重要な仕事か、彼は理解していたし、これは俺にしか出来ないという自負を感じました。

朝九時に始めて、なんと一時間で終わってしまいました。

その仕事ぶりは見事と言うより他になかった。

熟練の二人のお爺さんと共に、3人での作業です。

クレーンで持ち上げては少しづつ振り回しながら、

「ここを押せ、こっちを押せ、今度はこっちを優しく。次こっち‥‥‥」

「何ミリどこがどう曲がっているのか、どうして解るんだろう?」

魔法でした。

佐倉の森と夕暮れを背景に地板を置いて眺めてみました。

そこには清浄な水をたたえる沼が静かに横たわっていた。

曲がった地板にこだわっていた自分のことを、どう頑張っても思い出せないくらいその風景はあるがままに自然で、人間が作ったものとは思えないくらい風景と化していました。

「地板」「地の板」‥‥‥‥‥‥「水面」

「心の水面」

実際の水面は地球という球体の一部ですが、心の水面は普遍的に平静でなければならない。

人間の心は、何か大切な局面において、静かに真っすぐであるべきだ。

あの工事に携わる全ての人々に叱られ、励まされ、この作品はようやくようやく完成しました。

「人間はおもねりながら」

そのとき私の中に閃いた図案がありました。

ふたりの人間が手を繋いで立っているかたちでした。

私は完成した地板の裏側にその図案を彫り込み、千年後に誰かがこの図案を発見したら、この作者が、この作品を通して何を学んだか、それを解ってもらえるかもしれないなどと、勝手な願いをかけて、この作品をおしまいとしました。

このときをきっかけに、私は自分の作品が完成すると、ふたりの人間を作品に彫り込むことにしています。

「 漣 」 第二部    完
尾崎 悟

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